「シーボルト事件」をご存知でしょうか。
江戸時代後期の日本で国外持ち出し禁止の日本地図が持ち出されてしまったこの事件のあと、海外ではそれらの地図を含む本が出版されています。
それが今回紹介するシーボルトの『NIPPPON』です。
中にはあの有名な伊能図を原図としたものも収録されているようですが、一体どのようなものなのでしょうか。
この記事ではシーボルト『NIPPON』内の様々な地図を紹介していきます!
地図の概要
名称(日本語) | 『日本』 |
名称(英語) | 『NIPPON』 |
製作時期 | 1832年〜1851年 |
製作場所 | オランダ・ライデン |
所蔵場所 | 九州大学附属図書館医学分館(日本・福岡県)など |
作者 | フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト |
材質 | 紙 |
大きさ | 縦59.5cm×横79cm |
『NIPPON』は江戸時代後期に日本で医者として活躍したフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトがオランダに帰国後出版した書籍です。
書籍内には付図としてシーボルトが日本滞在中に入手した地図を基にした地図を複数収録しており、中にはあの伊能忠敬の地図を参考にしたものもあります。
シーボルトと『NIPPON』
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト(1796年〜1866年)はドイツ出身の医師・博物学者です。
ドイツの大学で医学を学んだのち、オランダで開業医となります。
その後1823年にオランダのアジア貿易の基地が所在するインドネシアのバタヴィアに入り、そこで長崎の出島商館の医師として日本での勤務を命令されました。
そして同年7月に来日し、「商館付医官」として勤務することとなりました。
商館付医官とは出島のオランダ人の健康維持のための職務でしたが、彼は同時に日本人に対しても医療行為を行なっていました。
そこには、当時のオランダが日本との貿易を再検討しており、その調査のために日本人との接触を増やしたいという意図がありました。
シーボルト事件
シーボルトは日本人と接触する中で、多くの地理的情報を入手していきます。
例えば蝦夷地(北海道)を調査した探検家・最上徳内と度々会い、樺太探検の様子などについての情報を得ました。
また幕府の天文方で書物奉行であった高橋景保は、ロシア初の世界一周を成し遂げたクルーゼンシュテルンの『世界周航記』と引き換えに伊能忠敬による日本地図の写しや、蝦夷・樺太の地図・探検記などをシーボルトに贈りました。
そしてシーボルトが帰国予定であった1828年に持ち出し禁止であったこれらの地図を国外に持ち出そうとしたことが発覚し、高橋景保をはじめとする関係者が処刑されました。
これがシーボルト事件と呼ばれる事件です。
シーボルトは国外追放となりましたが、結果的にシーボルトは地図の持ち出しに成功しています。その証拠にそれらの地図を含む日本で得た情報をまとめた書籍を製作しています。
『NIPPON』の出版
帰国後最初に出版されたのが、この記事のテーマでもある『NIPPON』です。
『NIPPON』は1832年から1851年の20年間に全20分冊が13回に分けて出版されました。
内容は日本の地理、民族、神話、歴史、芸術、宗教、産業、周辺国など日本に関するありとあらゆる情報が載っており、ヨーロッパにおける日本研究の基礎となりました。
続けて1833年からは『日本動物誌』、1835年からは『日本植物誌』をこちらも分冊で刊行しています。
以下、『NIPPON』付図にはどのような地図があったのか見ていきましょう。
「日本とその隣国および保護国」(1832年)
最初に紹介する地図が1832年の第1回配本に掲載されている「日本とその隣国および保護国」と呼ばれる日本とその周辺の地図です。
この地図は前出の高橋景保による「日本辺界略図」(1809年)をドイツ語に翻訳したものです。
この日本辺界略図は高橋が「新鐫総界全図」という世界地図とセットにしたものでしたが、シーボルトは日本辺界略図のみ手に入れていました。
なお基になった地図のタイトルは「日本辺界略図」ですが、シーボルトはこのタイトルを読み間違えていたようです。
「日本とその隣国および保護国」の右下に書かれたタイトル部分にローマ字で「NIP-PON JE SIN RJOO TSU.」とあり、シーボルトは「ニッポンエシンリョウツ」と読んでしまっていたことがわかります。
「日本輿地路程全図」(1835年)
続いては、1835年の第3回配本内の「日本輿地路程全図」を紹介します。
日本輿地路程全図では、蝦夷を除く日本全土が4つの地域に分けて収録されています。
これらの地図は江戸時代中期の地理学者・長久保赤水による「改正日本輿地路程全図」を原図とするものです。
この地図は当時非常に人気であり、1779年の初版以降100年近くに渡って改正され続けました。
なおシーボルトは1811年の第3版を持ち帰っていることがわかっています。
先ほど紹介した「日本とその隣国および保護国」とは異なり、『NIPPON』内の「日本輿地路程全図」では地名は日本語のまま翻訳されていません。
これはシーボルトには本図を地図としてよりも地名集として利用する意図があったためと考えられます。
赤水の原図には経緯線が引かれているものの後に紹介する伊能図と比較すると正確性に欠けます。それならば日本現地での利用を考えて日本語のまま表記しておく方が利便性が高いという訳ですね。
地図が4つに分割されているのも地名の読みやすさを考慮してのことでしょう。(赤水の原図は縦85cm×横1370cmもある)
「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」(1840年)
最後に紹介するのが、1840年の第9回配本に収録されている「日本人作成による原図および天文観測に基づく日本地図」という何やら長ったらしい名前のついた以下の地図です。
この地図こそシーボルト事件で問題になった伊能忠敬による日本地図、「大日本沿海輿地全図」(通称「伊能図」)をオリジナルとし、メルカトル図法と呼ばれる地図投影法に修正したものです。
現代のものと比較しても遜色ないこの地図は、その詳細さゆえに、国防上の理由からその流出がシーボルト事件として問題になったのです。
そしてこの地図はのちにヨーロッパやアメリカで出版される日本地図の原型となりました。
まとめ
シーボルト『NIPPON』内の地図をいくつか紹介させていただきました。
POINT
- シーボルトが日本滞在中に入手した地図を原図としている。
- ヨーロッパやアメリカにおいて日本を知るための情報源となった。
当時の日本としては重大な事件ではありましたが、これほどまで多様な日本製地図が海外で出版されたのはそれまでで類を見ないことでした。
これらの地図はそれを見た当時の人々はもちろん、現代の私たちをも楽しませてくれています。
参考文献
海野一隆 (1999) 『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』大修館書店.
宮崎克則 (2017) 『シーボルト『NIPPON』の書誌学研究』花乱社.
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