地図の概要
名称(日本語) | 禹跡図 |
名称(中国語) | 禹跡圖 |
名称(英語) | Yuji tu |
製作時期 | 1136年 |
所蔵場所 | 西安碑林博物館(中国・陝西省西安市) |
作者 | 不明 |
材質 | 石碑 |
大きさ | 縦79cm×横78cm |
「禹跡図」は南宋時代の中国で作られた地図です。成立は1136年4月頃で、石碑上に掘られています。
中国全土を描いた地図で、「禹貢地域図」という地図を参考にして方眼が使用されています。
大禹
禹跡図という名前は禹(大禹)という伝説上の皇帝の事業の跡、という意味から取られています。
大禹は、黄河の治水にあたった業績から中国の帝位を授かり、夏王朝を開いたと伝えられています。
そして国土を9つの州(九州)に分けたことが「禹貢」という地理書に記されています。
晋の地理学者 裴秀(224年〜271年)は「禹貢地域図」という地図を作る際にこの「禹貢」を情報源の一つとしていたようです。
禹貢地域図の序文では、地図製作における6つの原則が挙げられており、その中には方眼の使用も含まれていました。
禹跡図でも方眼が使用されていますが、それはこの地図が「禹貢地域図」を参考に作られたからであり、その禹貢地域図は大禹の業績を記した「禹貢」を参照したものです。
つまり禹跡図の大元をたどると大禹の業績にたどり着くという訳です。
禹跡図と華夷図
この禹跡図の裏側には、もう1つ地図が彫られています。
それが「華夷図」という地図です。
華夷図は禹跡図の成立から半年ほど経った1136年10月頃に石刻されたものです。
禹跡図が中国全土の地図であるのに対して、華夷図は周辺国まで描いた中国から見た世界図となっています。
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地図の内容
禹跡図の中でまず注目すべきは、国土全体に張り巡らされた方眼です。
前述のように禹貢地域図の序文に記載のある地図製作における6つの原則のうちの1つに従っての使用ですが、禹跡図で表されている方眼は東西方向は非常に正確に表されています。
一方で南北方向に関しては必ずしも正確ではない部分も見受けられます。とはいえヨーロッパの地図製作史よりも遥かに先を行っていたと言えます。
この方眼は中国全土を5110のマスに分けており、各マスは100里四方となっています。(中国では1里=約500m)
禹跡図では、北は現在の内モンゴルから南はベトナム、東は太平洋から西は現在の新疆ウイグル自治区やミャンマー辺りまでの範囲が表されています。
地図の中身を見てみると約380もの行政区の他、川が約80本、山が70ヶ所、そして湖が5つ描かれています。
製作意図
禹跡図の製作意図として、第一に大禹の功績を示すことが考えられます。
地図上の国土や川は正確性が高く、これは大禹が国土を九州に分けたことや灌漑の功績を示すのに一役買っていると言えます。
また、裏面の華夷図と合わせて、中国統一の理想を描くという意図もあったと考えられます。
この地図が成立した当時の中国は、南部を南宋が、北部を女真族の金王朝が支配している状態でした。
このような状態の中で宋の支配者たちは北の領土を取り戻して中国を再び統一することを夢見ていたようで、この地図にもそうした想いが込められていると考えられます。
まとめ
今回は中国(南宋)の「禹跡図」という地図を簡単に紹介させていただきました。
POINT
- 晋の地理学者 裴秀による「禹貢地域図」を参考に作られた地図である
- 「華夷図」という中国から見た世界図の石碑の裏側に石刻されている
- 地図には方眼が使用されている
- 夏王朝を開いたとされる大禹の功績を示す意図があったと考えられる
参考文献
海野一隆 (2004) 『地図の文化史 世界と日本』八坂書房.
織田武雄 (2018) 『地図の歴史 世界篇・日本篇』講談社.
ブロトン, ジェリー (2015) 『世界地図が語る12の歴史物語』西澤正明訳, バジリコ株式会社.
Akin, Alexander and Mumford, David. ““Yu laid out the lands:” georeferencing the Chinese Yujitu [Map of the Tracks of Yu] of 1136” Cartography and Geographic Information Science, Vol. 39, No. 3, 2012, pp. 154-169.
Yu ji tu. | Library of Congress
Yu Ji Tu, an exemple of traditional Chinese cartography – Senses Atlas
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