世界の古地図の中で日本がどのように描かれてきたのかを辿るシリーズ、前回はイスラーム・東アジア編をお送りしました。
今回はその続きとしてヨーロッパ編をお届けします!
イスラーム・東アジア編をご覧になっていない方は是非こちらも合わせてご覧下さい。
ヨーロッパ
ヨーロッパと日本は地理的に離れていますので、ヨーロッパ人に日本の存在が知れ渡るのは他の地域(イスラーム・東アジア)と比べて最も遅くなっています。
その一方で両者の交流が始まって以降はいち早く近代的な地図の製作に成功しています。そこに至るまでの過程を見ていきましょう。
ジパング
ヨーロッパに初めて日本が紹介されたのは13世紀末のことでした。おなじみマルコ・ポーロの『東方見聞録』において「黄金の国ジパング」として紹介されたのが始まりです。
フラ・マウロの世界地図(1450年頃・イタリア)
『東方見聞録』の刊行から150年ほど経過した頃、ヨーロッパの地図にようやく日本が登場することとなります。それが1450年頃の「フラ・マウロの世界地図」です。
この地図は南が上になっていますが、地図の極東部分、つまり左端に「Ixola de Cimpagu」という地名が書かれた九州とおぼしき島があります。
なおこのように『東方見聞録』とこの地図の登場の間に間隔があったのは、『東方見聞録』内にジパングを地図上に落とし込めるほどの情報がなかったためと考えられます。
ヘンリクス・マルテルスの世界地図(1489年頃・イタリア)
ドイツ出身の地図製作者ヘンリクス・マルテルスが1489年頃に製作した世界地図にもジパングが描かれています。
地図の劣化が激しいですが、右上に見える南北に長い島がそうです。
この形は中世から伝わる伝説上の島であるアンティリアの描写に着想を得たものであると考えられています。アンティリアは大西洋の西端にあると信じられていました。
マルティン・ベハイムの地球儀(1492年・ドイツ)
マルティン・ベハイムによる、現存する最古の地球儀上にもジパングの姿が見られます。
以下が日本を含む部分の図ですが、中国沿岸に「Cipangu」と書かれた南北に長い島があります。この地球儀は上で紹介した「ヘンリクス・マルテルスの世界地図」を参考にしたとされているので日本の描写など含めて共通点が見て取れますね。
ボルドーネ日本図(1528年・イタリア)
西洋初の単体の日本地図はベネディット・ボルドーネの1528年の著書『世界島嶼誌』の中に収められています。
一見、先ほどとは違い東西に長い島のように見えますが、実際は左斜め上に伸びている矢印の方向が北を指しています。
コスモグラフィア(1544年・ドイツ)
以下の地図はセバスティアン・ミュンスターの『コスモグラフィア』内に収められたアメリカの地図です。
北アメリカの西岸には「Zipangri」と書かれた日本が確認できます。中国ではなくアメリカ付近に描かれていることから日本の位置がまだ不確かであったことが窺えます。
ジャパン
現在でも使われている「ジャパン」という呼び名は、16世紀初頭以降用いられるようになります。
それは中国南部に到達したポルトガル人が聞いた中国語の「日本」の発音を「ジャパウン(Japão)」と表記したことに由来します。
そしてポルトガル人が日本の種子島に漂着した1543年以降、「ジャパン」という名前とともに、かつては想像に過ぎなかった日本の形が徐々に実際の情報に基づいたものへと変化していきます。
ヴァリセリアナ図(1550年頃・ポルトガル)
「ジャパン」の名が登場する地図で一番古いのは、「ヴァリセリアナ図」と呼ばれるものです。これは1550年頃に作られたポルトガル製の海図で、作者はわかっていません。
出典:Camões and the Portuguese voyages of discovery – UNESCO Digital Library
上の画像では文字が潰れてしまっていて恐縮ですが、┛型に並んだ群島の部分に「Japam」や「Ilhas de Miacoo(都の島)」の文字が見られます。
ロポ・オーメン世界図(1554年・ポルトガル)
1554年の「ロポ・オーメン世界図」においては日本と見られる場所が2つも見られます。
下の画像は地図の右端部分を切り取ったものになります。
こちらも細かい地名が読めないですが、画像中央の半島部分に「mimonoxeque(下関)」や「terara xicola(四国地方)」の地名が見られます。
またその南西の島嶼部分には「Japam」とも書かれています。
しかし、それと同時に「ジパング」と思われる島も描かれています。
画像の右端の南北に長い島がそうで、上で見たようなジパングの形とよく似ていますよね。
このように2つ描かれているのはおそらく地図の作者が「ジパング」と「ジャパン」を別物として捉えていたためと考えられます。
バルトロメウ・ヴェリュ西太平洋図(1561年・ポルトガル)
1561年のバルトロメウ・ヴェリュによる海図内の日本は、その描写において進歩が見られます。
位置関係は依然イマイチですが左上には大きな本州があり、その右側にピンク色の四国、そして本州の南側には九州が見られます。
地名も「miaco(都)」をはじめ、「maguche(山口)」、「cãgoxuma(鹿児島)」、「saquai(堺)」などイエズス会士フランシスコ・ザビエルの書簡に見られるものが多数記されています。
世界の舞台(1570年・ベルギー)
1570年に初版を迎えた、アブラハム・オルテリウスによる地図帳『世界の舞台』の中には日本が含まれる地図が複数収録されており、ものによって違う形をしています。
例えば以下の「タルタリア図」では右下の部分に「IAPAN」が見られますが、その形は上に見たヴェリュのものによく似ています。
一方こちらの「東インド図」の上部に描かれている日本はまた違った形をしています。
この形は1569年の「ゲラルドゥス・メルカトルの世界地図」内の日本の形とよく似ています。
こうした描き方の違いはどの地図を参考にしていたかに起因するのですが、日本の描写がまだ安定していなかったことがわかりますね。
日本地図の近代化
イエズス会士たちが中国や日本での活動を本格化させていくと日本製の地図へのアクセスが容易になり、それらをモデルとした地図が作られるようになります。
テイセラ日本図(1595年・ベルギー)
『世界の舞台』の1595年版に追加された日本単体の地図は西洋初の近代的日本地図と言えるもので、だいぶ日本らしい形になってきています。
この地図はイエズス会士ルイス・テイセラが、1592年に『世界の舞台』の作者オルテリウスに向けて送ったもので「テイセラ日本図」と呼ばれています。
作者はテイセラ自身ではなく、日本に滞在していたイエズス会士が日本の「行基図」と呼ばれる地図をもとに作成したものです。
日本の地図をモデルにしているだけあり、形・地名ともに今までと比較して遥かに詳細になっています。
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ブランクス/モレイラ日本図(1617年・イタリア)
ポルトガルの地図製作者イグナシオ・モレイラが製作し、フランスの版画家クリストフォロス・ブランクスが印刷した日本地図は両者の名をとって「ブランクス/モレイラ日本図」と呼ばれています。
この地図はヨーロッパで初めて実際の調査に基づいて作られたものです。
作者のモレイラは16世紀末に日本を訪れ、鹿児島から京都にかけてを測量しました。そこに各地からの情報を加えてできたのがこの地図です。
点線で国の境界線も引かれています。
この地図はベルナルディーノ・ジンナーロやアントニオ・フランシスコ・カルディンらによる後年の地図のモデルにもなっています。
日本帝国図(1715年・オランダ)
日本の鎖国下においても、ヨーロッパで唯一交易を続けていたオランダを中心に日本のものを元とした地図が作られていました。
その一つがオランダのアドリアーン・レーラントによって作られたこちらの地図です。この地図は地名の漢字表記が見られる最初のヨーロッパ製地図です。
この地図のもととなったのが石川流宣による「日本海山潮陸図」(通称「流宣図」)です。
シーボルトの日本地図(1832年/1840年・オランダ)
シーボルト事件で有名なドイツ人医師シーボルト(1796〜1866年)は帰国後、地図を出版しています。
シーボルト事件とは、シーボルトが日本滞在中に手に入れた持ち出し禁止の日本地図を帰国の際に持ち帰ろうとした事件です。これらの地図は、幕府の書物奉行(書物を管理する役職)をしていた高橋景保から受け取ったものであり、中にはあの伊能忠敬による「大日本沿海輿地全図」(通称「伊能図」)も含まれていたようです。
地図は幕府によって回収されたかと思いきや、シーボルトは地図の写しを作成しており、それらをもとにした地図が彼の帰国後ヨーロッパで2種類ほど出版されています。
一つ目が1832年に出版されたこちらの地図です。
この地図は高橋景保の「日本辺界略図」(1809年)をドイツ語に翻訳したものです。
もう一つの地図はこちらの1840年に出された地図です。
この地図は前述の持ち出し禁止の「伊能図」をメルカトル図法に修正したものです。現代の地図と比較しても遜色ないですね。
そしてシーボルトによる地図はその後ヨーロッパやアメリカで出版される地図の原型となりました。
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まとめ
前回から2回にわたって世界の古地図の中で日本がどのように描かれてきたのかの変遷を見てきました。
想像だけで描かれていたり、なぜか二つも描かれていたりしていた状態から徐々に実際の形に近づいていく過程を楽しんでいただけたなら幸いです。
参考文献
井田 浩三 (2018) 『伊能図を元にした海外版刊行図』 地図, 2018, 56 巻, 1 号, p. 1_40-1_50.
海野一隆 (1999) 『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』大修館書店.
織田武雄 (2018) 『地図の歴史 世界篇・日本篇』講談社.
クーマン, C. (1997) 『近代地図帳の誕生 アブラハム・オルテリウスと『世界の舞台』の歴史』船越昭生監修, 長谷川孝治訳, 臨川選書.
椎名浩 (2012) 『「島」から「列島」へ- 16世紀中葉のイエズス会士 による日本地理把握の変遷についての一考察 -』熊本学園大学論集『総合科学』, 19巻, 1号, pp.137-161.
三好唯義 (1984) 『日本地図の変遷とイエズス会報告』歴史地理学 (126), p36-48, 1984-09, 歴史地理学会.
Crouch, Daniel, et al. “Mapping Japan: The Jason C. Hubbard Collection.” Daniel Crouch Rare Books, 2018.
Wroth, Lawrence C. “The Early Cartography of the Pacific.” The Papers of the Bibliographical Society of America, 1944, Vol. 38, No. 2, THE EARLY CARTOGRAPHY OF THE PACIFIC (1944), pp. 87-231, 233-268.
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