行基といえば飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した仏僧ですが、そんな彼の名を冠した「行基図」と呼ばれる日本地図がかつて日本で作られていたのはご存知でしょうか。
行基は本当に地図を作ったのか、その点も含めて行基図の特徴や歴史、その役割から海外への影響などを概観していきましょう。
行基図の特徴
行基図とは、中世から江戸時代初期の日本で作られていた日本地図の総称です。
行基との関連
行基図という名称は奈良時代の仏僧である行基(668年〜749年)に由来しています。それは「行基菩薩御作」と記された行基図が多数確認されているためです。
しかし行基は本当に日本地図の製作を行ったのでしょうか?
結論から言うと、残念ながら行基が地図を作ったわけではないと考えられています。
その根拠として、行基が地図を製作したという記録が残っていないこと、そして地図上に引かれた道の起点が行基が活躍した奈良時代の国都である大和(平城京)ではなく山城(平安京)になっていることが挙げられます。
そのため行基図という名称は、数多く存在する行基伝説の1つとして後世になって行基と結び付けられたものに過ぎないと考えられます。
日本の形状
行基図は東北地方の起き上がりが小さい、東西方向に真っ直ぐ描かれた日本列島の形状に特徴があります。
この形は、独鈷杵になぞらえられています。
独鈷杵(独鈷)というのは密教で使う法具の一種で、両端の尖った金属製の棒です。
こうした形状から仏教との関連がうかがえます。(実際どのような関連があるかは「行基図の役割」の項で後述)
地図の向き
地図と言えば北を上に向けたものが一般的ですが、行基図では北が上になっているものはほとんど見られません。
むしろ行基図の多くは南を上に向けられており、掛け軸用に縦長に描かれたものに関しては東または西向きになっています。
北を上にした行基図は、世界図(北が上)と対になった屏風上の日本図においてのみ見られます。
地図の内容
五畿七道の街道
平安京のある山城から伸びる五畿七道の街道は行基図の大きな特徴の1つです。
中には日本の輪郭がなく、国名と五畿七道の道のみが描かれた行基図もあります。
国土に関する情報
多くの行基図では、地図の周辺に郡数、田数、人口などといった国土に関する情報が書かれています。
「南贍部洲大日本国正統図」のようにこうした情報に紙面を大きく割いている地図もあり、これらは地図よりもむしろ文字情報を主役にしているとも考えられます。
江戸時代に刊行された行基図の中には、地図の周辺に各国ごとの石高が記載されているものもあります。
1651年(慶安4年)の「日本国之図」がその例です。
調庸物運搬所要日数
地図上に調庸物の運搬所要日数が載っているものもあります。
例えば先に紹介した『二中歴』内の行基図にも書かれています。
これは「行基図の役割」の項でも後述しますが、調庸物を納めるために都を訪れた者に帰り道を案内する役割があったことを示唆しています。
行基図の起源と歴史
行基図の起源
行基図がいつ頃から作られ始めたのかについて詳しいことは不明ですが、先述のように平安京のある山城から五畿七道の道が伸びていることから行基の活躍した奈良時代ではなく、その後の平安時代起源のものであると推察できます。
初期の行基図
現在確認されている行基図の中で最も古い起源を持つとされているのが、「延暦二十四年改正輿地図」です。
この地図は藤原貞幹による『集古集』(1796年)内に収められているものですが、 「延暦二十四年」とあるように過去に描かれたもの(京都の下鴨神社にあった地図)を写したものとなっています。
しかしこの延暦24年(805年)という年代は正しくないと考えられており、弘仁14年(823年)に新設された加賀国が書かれていることから原図は少なくともそれ以降のものでしょう。
原図ではなく地図そのものの製作が最も古い現存する行基図は、仁和寺所蔵の「日本図」(嘉元3年・1305年)です。
南が上に向けられたこちらの地図ですが、残念なことに中国地方の安芸国以西の部分が欠損しています。
江戸時代の行基図
江戸時代に入ってからも、その初期においては行基図が引き続き利用されていました。
この時代の行基図は従来のような手書きのものではなく、日本での出版技術が台頭してきたという背景もあり、木版を中心とした出版地図でした。
中でも慶長年間(1596年〜1615年)に出版された『拾芥抄』という書物の中の行基図はこうした出版日本図の中で最古のものです。
しかし寛文年間(1661年〜1673年)に入ると日本図の製作は徐々に行基図の影響を脱して、より絵画的な地図が作られるように変化していくこととなります。
寛文2年(1662年)の「扶桑国之図」がその典型例です。上に紹介した『拾芥抄』の日本図の引用で「行基菩薩」の名前は登場はしているのですが、地図自体の描写は行基図のものよりも詳細になっており、また彩色がなされています。
こうして徐々に行基図は歴史の表舞台から姿を消していくことになりますが、伊万里焼や九谷焼の皿上の日本地図としては江戸時代後期まで描かれ続けました。
行基図の役割
行基図には様々な役割があったと考えられます。
ここではその主立ったものとして、案内図としての役割、追儺の儀式での利用、そして魔除けとしての役割という3つを紹介します。
案内図として
五畿七道の道や調庸物運搬日数が盛り込まれていることから、行基図に案内図としての役割があったと考えることができます。
先にも少し触れたように調庸物を納めるために都を訪れた者に帰り道を案内したり、官人や国師が七道諸国へ派遣された時や天皇の行幸の際にも利用されていたと考えられます。
追儺の儀式
行基図が追儺の儀式で利用されていたという説もあります。
追儺とは、大晦日に行われる鬼を払う儀式のことです。かつては朝廷で行われていたようですが、のちに寺院でも行われるようになったようです。
行基と追儺の関係性についてですが、日本での追儺が慶雲3年(706年)の行基の奏上に起源を持つものとされていることが挙げられます。
そして追儺の際に、鬼が入ってきてはならない国土を視覚的に表すために行基図が用いられていたのではないかと考えられているのです。
魔除けとして
行基図に魔除けとしての役割を見出すこともできます。
「地底鯰之図」という行基図(や同種の行基図)で表現されている内容からその意図を汲み取ることができます。
地底鯰之図ではその名の通り鯰が描かれており、行基図の周りを取り囲んでいます。
そして鯰の頭部には「かなめ石(要石)」が見られます。要石とは、茨城県の鹿島神宮にある石で地震を起こす鯰を押さえているとされています。
こうしたことから、この地図には地震除けとしての役割があったと考えられます。
海外への伝来
行基図は近隣の東アジア諸国はもちろん、遠くヨーロッパにまで伝わり、現地で作られる日本地図の原図となりました。
ここでは、行基図を参考にしてどのような地図が作られたのかを各地域ごとに見ていきましょう。
東アジア
行基図は早くから朝鮮や中国といった東アジアの近隣国に伝わっています。
そして倭寇(東アジアで活動していた日本人を中心とする海賊)への脅威から日本への関心が高まり、こうした行基図を参考にした日本図が作られるようになりました。
例えば朝鮮では、1402年に「混一疆理歴代国都之図」という地図が作られており、その右下に配置された日本は明らかに行基図の特徴を有するものであることがわかります。
他にも1471年の歴史書『海東諸国紀』に掲載されている「海東諸国全図」も行基図系の日本図になっています。
また中国においても1530年の『日本考略』内の日本地図などに行基図の影響が見受けられます。
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ヨーロッパ
16世紀後半頃からイエズス会士たちが中国や日本での活動を本格化させていくと、日本製の地図へのアクセスが容易になりました。
そして日本の行基図をもとにした日本地図がヨーロッパでも製作されるようになります。
1585年頃のものとされる以下の日本図は行基図の形そのままです。この地図は、天正遣欧少年使節団がローマで教皇に謁見した際に持っていた行基図をポルトガル語に翻訳したものであると考えられています。
出典:Geographical Curiosities and Transformative Exchange in the Nanban Century (c. 1549-c. 1647)
またアブラハム・オルテリウスの『世界の舞台』の1595年版に収録されているこちらの日本地図も行基図をもとに製作したものです。
この地図はルイス・テイセラというイエズス会士がオルテリウスに送ったものですが、地図の作者はテイセラ自身ではなく、日本に滞在していた他のイエズス会士です。
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まとめ
行基図について紹介させていただきました。
ポイントを簡単にまとめると以下の通りです。
POINT
- 行基図は中世から江戸時代初期の日本で作られていた日本地図の総称のこと。
- 実際に行基が作ったわけではないと考えられる。
- 独鈷杵になぞらえられた形が特徴で、南を上にしたものが多い。
- 五畿七道の道や調庸物運搬日数、国土に関する情報などが盛り込まれている。
- 役割としては案内図、追儺での使用、魔除けとしてなどが考えらえる。
- 中国や朝鮮、ヨーロッパに伝わり、行基図を原図とする地図が作られた。
この記事を通して行基図への理解を深めていただけたなら幸いです。
参考文献
海野一隆 (1999) 『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』大修館書店.
海野一隆 (2004) 『地図の文化史 世界と日本』八坂書房.
織田武雄 (2018) 『地図の歴史 世界篇・日本篇』講談社.
川村博忠 (1990) 『近世絵図の地図性 一地図の向き一』「地理 科学」vol.45 no.3, pp.137-143.
京都大学大学院文学研究科地理学教室, 京都大学総合博物館編 (2007) 『地図出版の四百年 京都・日本・世界』ナカニシヤ出版.
ポロヴニコヴァ・エレーナ (2014) 『大雑書に表現される「世界」観 一「須弥山図」と「地底鯰之図」を中心に一』「日本思想史学」第46号, pp.172-189.
三好唯義, 小野田一幸 (2021) 『新装版 図説 日本古地図コレクション』河出書房新社.
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