フラ・マウロの世界地図(Fra Mauro’s World Map)

               

「黄金の国ジパング」としてヨーロッパに日本を初めて紹介したのが、『東方見聞録』で有名なマルコ・ポーロであるというのはご存知の方も多いかと思います。

それではヨーロッパの地図に日本を初めて登場させたのは誰でしょうか?

それは15世紀にイタリアのヴェネツィアで活躍したフラ・マウロと呼ばれる人物でした。

この記事では、日本が初めて登場したヨーロッパ製の地図である「フラ・マウロの世界地図」の特徴や製作意図などを掘り下げていきます。

 

地図の概要

フラマウロの世界図

名称(日本語)フラ・マウロの世界地図
名称(英語)Fra Mauro’s World Map
製作時期1450年頃
製作場所イタリア・ヴェネツィア
所蔵場所国立マルチャーナ図書館(イタリア・ヴェネツィア)
作者フラ・マウロ
材質羊皮紙と木製の枠
大きさ直径約2m

フラ・マウロの世界地図は1450年頃に作られた地図です。

通常、ヴェネツィアのサン・マルコ広場にある国立マルチャーナ図書館に展示されているのですが、2021年6月現在、修復作業のため見ることができません。

また冒頭でも触れたとおり、この地図は日本を描いた最初のヨーロッパ製の地図と言われています。

 

地図の作者

地図の名前の通り、作者はフラ・マウロ(1385年頃〜1460年頃)という人物です。

フラ・マウロ

彼は若い頃は商人や軍人として各地を旅行していました。その後ヴェネツィアのムラーノ島にあるサンミケーレ修道院の修道士となり、地図製作に従事していました。

フラ・マウロによる地図は「フラ・マウロの世界地図」以外にも2点特定されています。そのうちの1つはポルトラーノ海図と呼ばれる種類の海図でバチカン図書館に所蔵されています。(こちらから地図の閲覧ができます。)

 

彼は「フラ・マウロの世界地図」の製作に際しては、同僚の修道士達や船乗りで地図製作者でもあったアンドレア・ビアンコの力を借りていたと言われています。

アンドレア・ビアンコの世界地図

アンドレア・ビアンコの世界地図(1436年)

 

 

地図の特徴

フラ・マウロの世界地図はマッパ・ムンディ(中世ヨーロッパで作られた地図でキリスト教世界が反映されている)に分類されますが、中世後期に作られたいわゆる「過渡期マップ」であり、他のマッパ・ムンディとは異なっている点が多数あります。

詳しいマッパ・ムンディの分類や特徴については、以下の記事でまとめていますので併せてご覧ください。

マッパ・ムンディとは? 〜その分類や特徴〜
マッパ・ムンディというのは一言で表すと中世ヨーロッパで作られた世界地図のことなのですが、その形式によって様々な種類に分類できます。そこで今回はマッパ・ムンディの4つの分類の特徴の解説や、各分類に属する地図の紹介をしたいと思います!

 

以下、フラ・マウロの世界地図の特徴をまとめます。

地図の方角

一点目は地図の方角についてですが、フラ・マウロの世界地図ではイスラムの地図製作の伝統に倣って南が上となっています。

一方他のマッパ・ムンディは基本的に東が上となっています。これはエデンの園が東にあったと考えられていたことに由来します。

また、エルサレムを中心に置いていない点も伝統的なマッパ・ムンディとは異なる点です。

 

インド洋世界

二点目の特徴は、インド洋周辺を詳細に描いている点です。
この地図は、インド洋世界を詳細に描いた現存する西洋最初期の地図とも言われます。

 

実際、インド洋の部分を見てみると帆船や記述が豊富に描かれているのがわかると思います。

一方、それでもスペース上の制約から島などは全ては描ききれなかったとフラ・マウロ本人が記しています。

インド周辺とインド洋

インド周辺とインド洋

 

詳細さもさることながら、インド洋世界の描写においてもう一点特筆すべきことがあります。
それはインド洋を内海としてではなく、大西洋と繋がった航行可能な海洋として描いている点です。

それまでの多くのマッパ・ムンディにおいては、熱帯の存在により地球の赤道周辺は航行できず、人が住むことさえできないと考えられていました。
こうした熱帯は以下のような「ゾーンマップ」と呼ばれるマッパ・ムンディにおいて表現されています。

ゾーンマップ

ゾーンマップ。現代の地図と同じく北が上になっており、真ん中の赤い部分が熱帯。

 

また、古代ローマの学者クラウディオス・プトレマイオスが著書『地理学』において、東アフリカと東南アジアをつなぐ未開の地(テラ・インコグニタ)によって大西洋と隔てられた内海としてインド洋を表現したこともインド洋が航行不能だと考えられていたことの一因であるとされます。

ちなみに、プトレマイオスの『地理学』は15世紀になってようやくラテン語に翻訳されました。

プトレマイオス図

プトレマイオスの地図(15世紀の複製)。東アフリカから東南アジア方面にかけて陸地が続いており、インド洋が内海になっていることがわかる。

 

こうした考えに対してフラ・マウロは、ローマ時代の学者ソリヌスによる主張や実際に大西洋-インド洋間の航行が行われていたという事実を根拠に、インド洋を大西洋と繋がった海洋として描きました。

 

日本の登場

また、先に触れたようにこの地図は日本を描いた西洋最初の地図と言われています。

地図の左端、中国の沿岸(ジャワ島の真下)に「Ixola de Cimpagu」という文字とともに九州とみられる島が描かれています。

ジャワ島と日本

地図の左端。「GIAVA」と書かれたジャワ島の下に塔のようなものが建った島(日本)が確認出来る。

こうした西洋の地図での日本の登場は、マルコ・ポーロによる東方探検の影響によるものです。

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地図の情報源

この地図上には3,000項目近くもの情報が盛り込まれています。

それらのすべての情報源がはっきりと分かっているわけではありませんが、いくつか情報源と考えられているものをここで紹介します。

プトレマイオス

前項目でも出てきたローマ時代の学者プトレマイオス起源と考えられる情報が地図上に見られます。
しかし、そういった情報はあまり強調しない形で描かれています。

また、前述のインド洋を内海として描いていた事例のように、フラ・マウロ自身がプトレマイオスと異なる見解を持っていた場合には自らの情報の新しさや正確性を強調するなど、プトレマイオスによる影響を脱却したかったかのように映る部分も見受けられます。

実際、15世紀頃は古代の地理学が疑問視され始めた時代であったことを考えると、フラ・マウロがプトレマイオスによる情報からの脱却を図っていたとしても不思議ではありません。

 

イスラーム世界からの情報

地図の方向がイスラームの地図製作の手法と同じく南向きであることに加え、地図上の情報においてもイスラム起源のものと考えられるものが見られます。

具体的には12世紀のアル=イドリーシーによる地図の影響が見られます。

タブラ・ロジェリアナ

1154年にアル=イドリーシーによって描かれたタブラ・ロジェリアナ(南が上)

アル=イドリーシーの世界地図

1154年にアル=イドリーシーによってつくられた世界地図(南が上)

 

また、フラ・マウロの世界地図の完成より後の著作になるものの、アラブ人航海士であるイブン・マージドの航海書の情報と一致している部分もあり、同書と同じ情報源を持っていたとも考えられます。

 

航海による最新の情報

15世紀中頃の地図製作当時は大航海時代の始まりであったことから、ポルトガルによるアフリカ西海岸の探索や地図の共同制作者で船乗りでもあったアンドレア・ビアンコの地中海西岸や大西洋への航海による情報も地図に反映されています。

こうした最新の情報が入ってきた背景としては、ヴェネツィア共和国が東西貿易の中心地として繁栄していたことが挙げられます。

 

伝承や伝説

上記の最新の情報とは対照的に、それ以前のマッパ・ムンディほどではないにせよ、昔からの伝承や伝説なども地図上には盛り込まれています。

例えばインドには(イラストではなく記述のみですが)、体長7フィート(200メートル以上)の7つの首を持つ蛇がいるとされていたり、ノルウェー周辺のバレンツ海に背中にある角のようなもので船に穴を開けるとされる魚が描かれていたりします。

角のようなものを持つ魚

バレンツ海に描かれた魚

 

また、中世後期にヨーロッパで広く語られていたプレスター・ジョン伝説に関して、彼の王国が現在のソマリアの辺りにあると記されています。
これは時のエチオピア帝国皇帝でキリスト教徒であったザラ・ヤコブと結びつけて語られたものだと考えられます。

プレスター・ジョン

プレスター・ジョン

 

このように伝承や伝説を地図上に描くと同時に、フラ・マウロはこういったものに懐疑的であったとも考えられています。

実際、とりわけ13世紀のマッパ・ムンディに見られたような怪物たちの図像はこの地図上ではほとんど見られません。

モンスターギャラリー

13世紀のマッパ・ムンディ上の典型的な怪物たち(ロンドン詩篇の世界図

 

恐らくは作者自身が実在しうると考えた伝承のみを選んで載せていたのでしょう。

 

聖書

聖書関連の情報はこの地図上ではほとんど見られなくなります。

かろうじて木枠の左下の部分にエデンの園が描かれていますが、地図上の東側に描いていた従来のマッパ・ムンディと比較するとそれほど重要視されなくなってきていることが分かります。

エデンの園

木枠に描かれたエデンの園(レオナルド・ベッリーニ画)

 

 

製作意図

以上のような特徴や情報を持つフラ・マウロの世界地図はどのような意図で作られたものなのでしょうか。

一つは航海に役立てるためと考えられます。
フラ・マウロはポルトガル国王アルフォンソ5世の委託でこの地図のコピーを製作しており、それを献上しています。

上述のようにポルトガルによるアフリカ西海岸探索の情報を盛り込んだこの地図が、のちにバルトロメウ・ディアスやヴァスコ・ダ・ガマと言った航海者達をインド洋へと駆り立てる一因となったとされます。

 

また、政治的な理由もみられます。

地図上にインド洋世界を詳細に描くことによって同地域を中心とする東西貿易の航路を表し、その拠点でもあったヴェネツィアの重要性を示すとともに、同地域への政治的干渉を意図していたと考えられます。

 

 

まとめ

「フラ・マウロの世界地図」の特徴を簡単にまとめると以下の通りです。

 

POINT

  • マッパ・ムンディの中でも「過渡期マップ」と呼ばれる分類に属している
  • プトレマイオスやイスラームの地図のほか航海に基づく情報や伝承など様々な情報を参照して作られた
  • 航海や政治的な意図で作られたものであり、従来のマッパ・ムンディとは異なり宗教色は薄い
  • 日本が登場する最初のヨーロッパ製地図である

中世とルネサンス期の狭間に作られ、今までにない特徴を持ったこの地図はその後の地図製作や大航海時代の推進に大きく貢献したと言えます。

 

 

参考文献


Cattaneo, Angelo. “God in His World: The Earthly Paradise in Fra Mauro’s “Mappamundi” Illuminated by Leonardo Bellini.” Imago Mundi, Vol. 55, 97-102, 2003.

Davies, Surekha. “The Wondrous East in the Renaissance Geographical Imagination: Marco Polo, Fra Mauro and Giovanni Battista Ramusio.” History and Anthropology, 23:2, 215-234, 2012.

O’Doherty, Marianne. “Fra Mauro’s World Map (c. 1448–1459).” Wasafiri, 26:2, 30-36, 2011.

Vogel, Klaus A. “FRA MAURO AND THE MODERN GLOBE.” Globe Studies, (57/58), 81-92, 2011.

Washburn, Wilcomb E. “Japan on Early European Maps.” Pacific Historical Review, Vol. 21, No. 3, 221-236, 1952.

イブン・マージド – Wikipedia

Fra Mauro – Wikipedia

Fra Mauro’s World Map (1460 CE)

Il Mappamondo di Fra Mauro | Biblioteca Nazionale Marciana

Magnificent Maps: Power, Propaganda and Art – Fra Mauro World Map

The 15th-Century Monk Who Crowdsourced a Map of the World – Atlas Obscura

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