世界の古地図の中の日本① 〜イスラーム・東アジア編〜

               

極東に浮かぶ南北に長い島国、日本。

その形は正確な地図が手に入る現代においては疑いようがないですが、特に国外の地図の歴史においては正確な形が分からず、想像だけで描いたり不正確な点が多かったりという状態が長きに渡り続いていました。

そこで世界の古地図の中で日本がどのように描かれてきたのかを、イスラーム・東アジア・ヨーロッパの3つの文化圏ごとに分けて辿っていきたいと思います。
今回は第一弾としてイスラーム及び東アジア編をお送りします!

 

第二弾(ヨーロッパ編)はこちら!

世界の古地図の中の日本② 〜ヨーロッパ編〜
世界の古地図の中で日本がどのように描かれてきたのかを辿るシリーズ、今回はヨーロッパ編をお届けします!ヨーロッパと日本は地理的に離れていますが、両者の交流が始まって以降はいち早く近代的な地図の製作に成功しています。そこに至るまでの過程を見ていきましょう。

 

イスラーム

日本とイスラーム世界の関係は、他の地域(東アジアやヨーロッパ)と比べて歴史は浅いのですが、実は地図の中では早い時期から登場していました。

 

日本を描いた最古の地図

マフムード・カーシュガリーの世界地図(1072年・イラク)

イスラーム圏のみならず世界的に見ても、日本を描いた現存する最古の地図はこの「マフムード・カーシュガリーの世界地図」であるとされています。

マフムード・カーシュガリーの世界地図

この地図は1072年にカラハン朝の学者マフムード・カーシュガリーが着手した『テュルク語集成』内に収められた世界地図です。

東を上に向けたこの地図の最上部の半円で囲われた島に「Japarqa(ジャーバルカー)」という地名が書かれており、これが日本であると考えられています。

 

 

ワクワク

上記のマフムード・カーシュガリーの世界地図の例を除き、中世イスラームにおける日本は「ワクワク」の名で登場します。

ワクワクというのは東方にあると考えられていた土地で、9世紀のイブン・フルダーズベによる地誌『諸道と諸国の書』内に見られる記述が確認されている最古のものです。

同書によると、ワクワクは中国の東方にある黄金に富んだ地とされています。
位置とワクワクの名を「倭国わこく」に由来するものだとする考えから、これが日本であると考えられています。

ワクワク

アル=カズヴィーニーの著書内のワクワクの女王

 

タブラ・ロジェリアナ(1154年・イタリア)

ワクワクの地名が見られる最古の地図として、アル=イドリーシーの「タブラ・ロジェリアナ」が挙げられます。

タブラ・ロジェリアナ

南を上にしたこちらの地図の左上、つまり南東の端にワクワクという地名が書かれています。情報が少なかったからか、当初は島としてではなく大陸の一部として描かれていたのですね。

 

 

西洋地図の影響

13世紀末に成立したオスマン帝国がヨーロッパ方面へ版図を拡大していった15世紀以降、ヨーロッパ世界の文化に触れる機会が増え、地図製作にもヨーロッパの影響が見られるようになりました。

世界の鏡(1732年・トルコ)

ヨーロッパの影響が見られる日本地図としては『世界の鏡』内の図が挙げられます。
オスマン帝国のキャーティプ・チェレビー(1609〜1657年)が記したこの地理書は彼の死後、1732年になってようやく出版されました。

下の地図が同地理書内の日本地図になります。

『世界の鏡』日本図

この地理書は”メルカトル・ホンディウス『アトラス』”を始めとするヨーロッパの地図を情報源としており、比べてみると下のメルカトル・ホンディウス『アトラス』内の日本地図(1610年)とほとんど同じであることがわかります。

メルカトル・ホンディウス『アトラス』日本地図

出典:Columbia University in the City of New York

 

 

東アジア

日本は古来から中国を中心に一つの文化圏を形成していたので、中国や朝鮮との交流は盛んに行われており、両国の地図にも比較的早い段階から描かれています。

 

地名だけの日本

東アジアの地図で日本を描いた最初期のものは、図形を伴わずに地名のみで書かれています。現存する12世紀の地図を二つ見ていきましょう。

華夷図(1136年・中国)

東アジアの地図で日本を書いた現存する最古のものはおそらくこの「華夷図かいず」です。この地図は1136年のもので石碑に刻まれています。

華夷図

地名のみではありますが地図の右端、朝鮮半島のすぐ下に「日本」と刻まれています。

華夷図 日本

「倭国」「毛人もうじん」「蝦夷」「流求りゅうきゅう」「扶桑ふそう」などの文字も見られますが、これらも日本に関連する地名や民族名です。

 

なおこの華夷図は唐代の賈耽かたんによる「海内華夷図かいだいかいず」(801年)を縮小したものであると考えられているのですが、そうすると現存していない海内華夷図にも日本が描かれていたとも考えられます。

 

古今華夷区域総要図(1140年頃・中国)

華夷図とほぼ同時期に描かれたのがこの「古今華夷区域総要図こきんかいくいきそうようず」というものです。

古今華夷区域総要図

南宋時代の中国で作られたこの地図にも地名として日本が見られます。
画像が小さくて恐縮ですが、右側の海に「日本」「倭奴わど」「毛人」「流求」「蝦蛦かい(蝦夷)」「扶餘ふよ扶桑の誤記)」など、先ほどと共通する地名や民族名が書かれています。

 

なお、この地図も賈耽の海内華夷図」を源流とするものです。

 

 

行基図の伝来

中世以降日本で作られていた「行基図」と呼ばれる種類の日本地図は室町時代以降、中国や朝鮮へと伝わっていきました。

中国や朝鮮では、当時拡大していた倭寇(東アジアで活動していた日本人を中心とする海賊)への脅威から日本への関心が高まり、こうした行基図を参考にした日本図が作られるようになりました。

行基図

行基図(17世紀の写本内のもの)

 

混一疆理歴代国都之図(1402年・朝鮮)

1402年に李氏朝鮮で作られた「混一疆理歴代国都之図こんいつきょうりれきだいこくとのず」はいくつかの版が残っており、それぞれ向きの異なる日本が描かれています。

龍谷大学所蔵のこちらの地図では、右端中央にある日本は正しい向きで描かれています。

混一疆理歴代国都之図(龍谷大学)

混一疆理歴代国都之図(龍谷大学蔵)

 

一方、本光寺所蔵のものは日本が右に90度回転しています。

混一疆理歴代国都之図(本光寺)

混一疆理歴代国都之図(本光寺蔵)

このような向きになっているのは、日本を描く際に西が上になった行基図を参考にしたからではないかと考えられています。

 

海東諸国全図(1471年・朝鮮)

李氏朝鮮で出版された、日本と琉球についての歴史書『海東諸国紀』に掲載されているのが以下の「海東諸国全図」です。

海東諸国全図

これも上の「混一疆理歴代国都之図」のように日本の行基図に拠ったものであり、それに加えて作者の申叔舟しんしゅくしゅうが朝鮮通信使として日本に赴いた際に得た地名も見られます。(鎌倉・富士山・兵庫など)

 

 

倭寇の脅威と誇張された日本

明朝末期の中国では活発化する倭寇の活動に苦しんでおり、それに伴って行基図に拠らない単純な形をした地図において日本を大きく描く事例が見られるようになりました。

四海華夷総図(1532年・中国)

日本が誇張された例として、明朝の中国で作られた「四海華夷総図しかいかいそうず」を挙げることができます。

四海華夷総図

この地図のさらに面白いところは大きく「日本国」が描かれているにも関わらず、そのすぐ下に「倭」も存在する点です。
16世紀にもなって倭が地図に登場するのは少し驚きですが、これも倭寇への脅威と結びついているのではないかとされています。

ちなみに左端にある「大秦だいしん」の地名はローマ帝国を指します。

 

皇明輿地之図(1536年・中国)

続いては1536年に刊行された「皇明輿地之図こうみんよちのず」です。

皇明輿地之図

「皇明輿地之圖」(関西大学デジタルアーカイブ)部分

本地図における日本は、形が単純かつ先ほどの「四海華夷総図」以上に大きさが誇張されていますね。

 

また日本の北側にある朝鮮が島になっていますが、こうした描き方は西洋にも伝わっています。

オルテリウスの日本地図

テイセラによる日本地図(1595年・オランダ)。朝鮮が島になっている。

 

 

西洋地図の影響

16世紀の終わりから17世紀にかけて、イエズス会士がキリスト教宣教のために中国の宮廷で活動を始めました。それによって西洋の知識が取り入れられ、経緯線の使用など地図製作にも変化が訪れました。

日本の描写についても今までの概念的なものから実際の形に沿ったものへと変わっていきます。

坤輿万国全図(1602年・中国)

イエズス会士マテオ・リッチによる「坤輿万国全図こんよばんこくぜんず」は前述のようにヨーロッパの知識が取り入れられており、中国における地理的知識の拡大に貢献しました。

坤輿万国全図

 

中央付近にある日本を見てみると、一見特徴を捉えているような気がしますね。

坤輿万国全図 日本

しかし北海道(蝦夷)があるべき場所をよく見てみると「北陸道」と書いてあり、その周りの地名を見ても北陸と蝦夷を混同していることが見て取れます。

これは在日イエズス会士から送られてきたローマ字表記の日本地図を漢字に直す際に生じたミスであると考えられます。

そして蝦夷はどこへ行ったかというと、「北陸道」のさらに北の大陸部分にある「野作イェツォ」が実は蝦夷を表しているのです。

 

海国図志(1843年・中国)

最後に紹介するのは清の魏源ぎげんによる地理書『海国図志』です。これはその情報を主に漢訳洋書に頼っており、地図にもヨーロッパの影響が見られます。

ここではその中の日本が載っているアジア図、東日本図、西日本図を紹介します。

海国図志 アジア図

亜細亜州全図

「亜細亜州全図」と題されたこちらのアジア図の東側には日本が見えますね。形は単純化されつつも特徴はとらえているようです。
経緯線が引かれていることからヨーロッパの影響も窺えますね。

 

日本国東界図

日本国東界図

日本国西界図

日本国西界図

続いては東西に分かれた日本図です。「東界図」は本州、「西界図」は九州の地図となっています。

先ほどと同じように経緯線は見られますが、各国の形は結構大胆で行基図を彷彿とさせますね。


 

その②(ヨーロッパ編)へ続く…

 

参考文献


海野一隆 (1999) 『地図に見る日本 倭国・ジパング・大日本』大修館書店.

織田武雄 (2018) 『地図の歴史 世界篇・日本篇』講談社.

谷口知子 (2008) 『『海国図志・四洲志』に見られる新概念の翻訳 ――原書との対照を通して』或問 WAKUMON 81 No.14, pp.81-97.

Karahan, Akartürk. “11th Century Turkic Communities From Kashgari’s Perspective” International Journal of Social Science, Number: 62, p. 117-126, Winter I 2017.

Karamustafa, Ahmet T. “Introduction to Ottoman Cartography” The History of Cartography, Volume 2 Cartography in the Traditional Islamic and South Asian Societies, edited by J. B. Harley and David Woodward, 1987.

Yee, Cordell D. K. “Traditional Chinese Cartography and the Myth of Westernization” The History of Cartography, Volume 2 Cartography in the Traditional East and Southeast Asian Societies, edited by J. B. Harley and David Woodward, 1987.

オスマン帝国 – Wikipedia

賈耽 – Wikipedia

海東諸国紀 – Wikipedia

行基図 – Wikipedia

マフムード・カーシュガリー – Wikipedia

ワクワク – Wikipedia

倭寇 – Wikipedia

Huayi tu – Wikipedia

Illustrated Treatise on the Maritime Kingdoms – Wikipedia

Kâtip Çelebi – Wikipedia

Sihai Huayi Zongtu – Wikipedia

The Oldest Map of Japan Drawn by Mahmud of Kashgar – Muslim HeritageMuslim Heritage

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