地球儀の歴史② 〜日本における地球儀の受容と製作の歴史〜

               

「聖徳太子の地球儀」というものをご存知でしょうか?

名前の通り聖徳太子(574〜622年)にゆかりのあるものと言われているのですが、実際は地球儀上の描写などから江戸時代に作られたものであると考えられています。

残念ながら聖徳太子の頃には地球儀はまだ存在しなかったようですが、日本では一体いつ頃から地球儀が登場するようになったのでしょうか?
今回は日本における地球儀の歴史を辿っていきたいと思います!

 

近世以前の日本人の世界観

地球儀は地球は丸いという地球球体説のもとに作られるものですので、本題に入る前に日本人の世界観について見ていきましょう。

 

日本では16世紀後半までずっと、地球平面説が信じられていました。
天地ともに平面であるとする「蓋天がいてん説」や大地は平面で天は球形とする「渾天こんてん説」など特に儒学者に受け入れられていた中国由来のものや、仏教的な「三国世界観」(世界が日本・中国・天竺(インド)の三国で構成されているという考え方)など様々な説がありましたが、いずれにしても地球を球体とみなすものはありませんでした。

 

そのような中で日本に地球球体説を初めて伝えたのは、かの有名なイエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルでした。

フランシスコ・ザビエル

 

 

江戸時代以前

織田信長と地球儀

日本の歴史上初めて地球儀を手にしたのは織田信長(1534〜1582年)であると考えられています。

織田信長

彼がイエズス会士が持ち込んだ地球儀を所持していたことは記録に残っていますが、それがどのような地球儀かはわかっていません。

信長は地球儀の他に西洋の世界地図も目にしていたようです。

 

豊臣秀吉

豊臣秀吉(1537〜1598年)は1582年に日本を出発し、1590年に帰国した天正遣欧少年使節の見聞や持ち帰ったものを見て、興味を示していたと言われています。

豊臣秀吉

使節団が持ち帰ってきたものの中には(こちらも詳細は不明なものの)地球儀やアブラハム・オルテリウスによる世界初の近代的地図帳「世界の舞台」などが含まれていました。

オルテリウスの世界地図

「世界の舞台」内の世界地図

また1592年にはスペインのドミニコ会修道士フアン・コーボから漢字表記の地球儀が贈られており、これらを通して世界における日本の小ささを実感させられたことが大陸進攻の企ての一因となったと考えられます。

 

 

江戸時代前期

江戸時代が始まってしばらくはイエズス会士を通して西洋の知識が取り入れられていました。例えば1595年に日本語訳されたイエズス会士ペドロ・ゴメスによる「天球論」や17世紀頭に日本に入ってきた「坤輿万国全図」(マテオ・リッチ作)によって地球球体説が徐々に広まっていきました。

坤輿万国全図

坤輿万国全図(1602年)

 

しかし1612年の禁教令や1630年の禁書令、そして1639年以降の鎖国体制によって、こうした西洋由来の知識の浸透は阻まれることとなります。
それは西洋学術の漢訳書や地図の輸入が禁止されたり、海外との交流が著しく少なくなったからです。

そのような状況下でも坤輿万国全図は影響力を保ち続け、オランダや中国との交易があった長崎を中心にそれを参考にした地図が作られるなど日本の地理知識の拡大に貢献していました。

 

国内での地球儀製作の始まり

このような状況の中、日本でも地球儀が作られるようになります。

現存していないので真偽は定かではないのですが、1670年に天文・暦学者の渋川春海しぶかわはるみが地球儀を製作したという記録があり、これが日本史上初の地球儀製作の例であると考えられます。

 

現存する日本製最古の地球儀に関しても同じく渋川春海によるもので、1690年に作られました。彼は続けて1692年、1695年にも地球儀を製作しています。

渋川春海の地球儀

渋川春海の地球儀のレプリカ(1695年)

File:Terrestrial Globe by Shibukawa Shunkai.jpg – Wikimedia Commonsより

クリエイティブ・コモンズ

この地球儀は上述の「坤輿万国全図」を参考にしたものです。

 

仏教的世界観との融合

地球球体説に基づく地球儀と仏教的世界観を融合させる試みをした住職がいました。それが久修園院くじゅうおんいん(現大阪府枚方市)の宗覚そうかくという人物です。

彼は1702年頃作の「久修園院地球儀」と呼ばれる地球儀において仏教的な須弥山しゅみせん説を反映させました。

久修園院地球儀

久修園院地球儀 – 枚方市 – LocalWikiより

クリエイティブ・コモンズ

須弥山というのは仏教における架空の山で、その南側にインド(南瞻部州 なんせんぶしゅう)が位置するとされています。このほか東西北の三方にもそれぞれ大陸があると考えられていました。

小さくて見づらいですが、上の画像で地球儀の上部に付いている透明の円柱が須弥山を表しています。

大陸の描写を見てみると、アフリカがユーラシア大陸から切り離されていたり南北アメリカが分離していたりするのですが、これらは須弥山の東西北三方の大陸として描くためにこのような描写になっていると考えられます。

 

このように仏教的世界観をベースにした地球儀が作られたことから、地球球体説がもはや否定できないものになりつつあったことが窺えます。(最も庶民にはまだ浸透していませんでしたが)

 

 

江戸時代中後期

ヨーロッパ製地球儀の舶来

鎖国下においても、ヨーロッパで唯一交易を続けていたオランダのものを中心に、多くはないもののヨーロッパ製の地球儀が舶来していました。

例えばアムステルダムのファルク父子による地球儀が1737年までの間に我が国に入ってきています。

ファルク地球儀

 

他にも1844年に出版された『寛政暦書』の中には様々な観測機器の図が載っているのですが、その中に「蛮製地球儀」と題された、オランダのブラウによる地球儀の図があります。

蛮製地球儀

 

また実用的な、少し変わった地球儀も入ってきました。
それがイギリスのベッツ社のポータブル地球儀です。

ポータブル地球儀

出典:Betts portable terrestrial globe – The Hocken Blog, University of Otago, New Zealand

1850年頃に発明されたこちらの地球儀は傘のように折りたたむことができ、持ち運びがしやすくなっています。

 

地球球体説の浸透と地球儀製作の興隆

1720年の禁書令の緩和によって漢訳書や地図の輸入が再び可能となり、西洋の知識の普及が加速していきます。

 

そして地球球体説は徐々に庶民の間にも広がっていきました。それは庶民向けの出版物の中に説に関する図や記述が見られることから窺えます。

例えば1719年に刊行された平住専庵ひらずみせんあんの『唐土訓蒙図彙もろこしきんもうずい』や1767年の中西敬房たかふさによる『渾天民用晴雨便覧』内には、地球球体説に基づく天体図や地球儀の図が見られます。
他にも暦に関する書や『和漢年歴箋』などの歴史年表にも同説に関する図が見られ、江戸時代後期までには庶民の間にも地球球体説が広く浸透していたと考えられます。

九天之図

『和漢年歴箋』内の九天之図

 

こうした状況の中で前期と比較して日本国内での地球儀製作もより盛んに行われるようになりました。

例えば1810年に司馬江漢しばこうかんが製作した地球儀や1856年に角田桜岳かくだおうがくらによって作られた地球儀が現存しています。

角田桜岳の地球儀

角田桜岳らによる地球儀(1856年)

出典:角田桜岳 – 郷土資料館 – 富士山文化課 – 富士宮市 | 静岡県富士宮市

 

沼尻墨僊ぬまじりぼくせんによる「大輿だいよ地球儀」もここで紹介しておきます。
これは1855年に公表されたもので、前述のベッツ社と同じく傘型の折りたたみ式です。

大輿地球儀

個別「20090430162203」の写真、画像 – taquai’s fotolifeより

クリエイティブ・コモンズ

 

ここで気になるのは両者の関係性ですが、残念ながらそれは明らかになっていません。大輿地球儀の方が数年後に作られたものではありますが、実のところ墨僊がベッツ社の地球儀を知っていたかどうかは明らかではないようです。

 

こうして様々な地球儀が作られた一方で、仏教界の一部では地球球体説に反対する考えが根強く残っていました。

 

 

明治時代

明治天皇の即位式と地球儀

明治時代の幕開けには地球儀が大きく関わっていました。明治天皇の即位式において地球儀が使われていたのです。

明治天皇即位式

明治天皇の即位式の様子を描いた「御即位庭上図」の一部。中央に地球儀が見られる。

 

実際に使われたのが以下の地球儀です。

明治天皇御即位式御用地球儀

出典:宮内庁

これは幕末に水戸藩の藩主徳川斉昭なりあきの命で作られ、のちに朝廷に献上されたものです。

地球儀を使用した意図としては、天皇の威信を世界に示すためであると考えられます。

 

学校教育での利用

明治時代に入って学校教育が始まると、地理教育の教材として地球儀が用いられるようになりました。

1885年(明治8年)には『地球儀用法大意 全』や『地球儀問答 全』、『小学問答(地球儀之部)』など地球儀や地理に関する教科書類が刊行されました。

地球儀用法大意

『地球儀用法大意』(東京学芸大学附属図書館所蔵)部分

小学問答

『小學問答 地球儀之部』(東京学芸大学附属図書館所蔵)部分

 

しかし明治20年代に入ると地理は必修科目から外され、それに伴って地球儀の利用も減っていきます。

 

 

大正時代以降

大正時代末期以降、再び学校教育において地球儀の使用を進める動きが見られるようになりました。

そして戦前から戦時中にかけて、地理教育が国家主義的性質を強めていきました。
こうした状況が戦後のGHQによる日本占領下における地理教育の禁止や学校内の掛地図や地球儀の廃棄といった結果を生みました。そのため戦前の帝国主義時代の大型地球儀はあまり現存していないそうです。

 

高度経済成長期以降は地球儀の家庭への普及も進み、学校教育でも再び利用されています。

 

 

まとめ

日本における地球儀の歴史を簡単に辿りました。

西洋との交流が始まると同時に地球球体説と地球儀がもたらされ、江戸時代を通じて徐々に受容が進んでいった過程と明治時代以降の利用の拡大を理解していただけたかと思います。

 

今回は日本における歴史でしたが、世界(特にヨーロッパ)の地球儀の歴史にも関心がある方は是非以下の記事もご覧下さい!

地球儀の歴史① 〜古代ギリシャからマルティン・ベハイム、現代まで〜
世界の様子を球体の上に表現する地球儀は「地球は丸い」という考えと密接に関係しています。この記事では地球球体説の浸透の過程とともに、地球儀の歴史を辿っていきたいと思います。世界で初めての地球儀の製作に当たったのはマロスのクラテスという人物です。

 

 

参考文献


石崎貴比古 (2014)「世界図に見る「天竺」認識に関する一考察 : 16世紀末~18世紀初頭の日本を中心として」, Quadrante : Areas, cultures and positions = 四分儀 : 地域・文化・位置のための総合雑誌 : クァドランテ (16), 95-115, 2014-03, 東京外国語大学海外事情研究所.

宇都宮陽二朗 (2015) 「日本地球儀製作史 拾遺- 渋川春海(安井算哲)製作に係る最古の地球儀-」, 日本地理学会発表要旨集, 2015, 2015s 巻, 2015年度日本地理学会春季学術大会.

宇都宮陽次郎, 杉本幸男 (1994) 「幕末における-舶来地球儀 – 英国BETTS社製携帯用地球儀について -」, 地図 32(3), 12-24, 1994-09-30, 日本国際地図学会.

海野一隆 著 『日本人の大地像 西洋地球説の受容をめぐって』 大修館書店、2006年

織田武雄 著 『地図の歴史 世界篇・日本篇』 講談社、2018年

川村博忠 著 『近世日本の世界像』 ぺりかん社、2003年

千田稔 著  『地球儀の社会史 愛しくも、物憂げな球体』 ナカニシヤ出版、2005年

山口幸男 (1998) 「わが国における各種地理教育論と社会科地理教育の意義」, 社会科教育研究79号, pp. 1-8, 1998.3.

禁教令 – Wikipedia

暦Wiki/歴史/日本の暦/4.高橋至時と寛政暦 – 国立天文台暦計算室

聖徳太子の地球儀 – Wikipedia

地球儀 – Wikipedia

地球球体説 – Wikipedia

地球平面説 – Wikipedia

天正遣欧少年使節 – Wikipedia

枚方市内の文化財 | 枚方市ホームページ

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Portable ‘Umbrella’ Globe | Whipple Museum

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